1. じっとりとした「不穏な空気」の正体
我がネットカフェは、利用した時間分の料金を帰りにまとめて支払う「時間制」というシステムをとっている。
基本的には、あらかじめ決めたお得なパック時間を過ぎると延長料金が加算されていく仕組みなのだが、パック時間を過ぎてもお帰りにならないお客様には、フロントから一度ご連絡を入れるのが決まりとなっている。
建前としては「店内で倒れていたり、具合が悪くなっていないか」という安否確認なのだが、本音を言えば「お金を払わずにドロン(死語)していないか」という生存確認である。
大抵のお客様は「あっ、寝過ごしてました!」と慌てて出てこられるのだが、たまに、バックヤードにじっとりとした不穏な空気を連れてくるタイプのお客様もいる。
その日やってきた30代とおぼしき男性客は、まさにその「不穏な空気」を全身から醸し出していた。
少し伸びっぱなしのボサボサした髪に、着古してヨレヨレになった服。そして、なぜか異様に多い荷物。
長年のネカフェ勤務で培ったしー姉の勘が、「……これは、ちょっと怪しいぞ」と静かに警報を鳴らしていた。
2. 呑気に競艇を観ている場合ではない
案の定、退店時間になっても彼は一向にブースから出てこない。
まずはフロントから、しー姉と一緒にシフトに入っていたスタッフの「パチンカス藤田」が内線電話をかける。
すると電話口からは、ボソボソとした声で「あと30分で出ます……」との返事があった。
しかし、30分が経過しても彼は現れない。
(これは……十中八九、手持ちのお金がないパターンだね。)
そう確信したしー姉は、直接ブースまで声をかけに行くことにした。
ブースの扉を開けてもらい、声をかけると、先ほどと同じように「あの、あと30分で出ますから……」と消え入りそうな声が返ってくる。
隙間からチラリとブース内のモニターを覗き見ると、彼は真剣な眼差しで「競艇」のレースを観ていた。
(おいおいおい、ちょっと待っておくれよ。お金がないかもしれない崖っぷちの状況で、何を呑気にボートレースを観戦しているんだい。)
私は心の中でツッコミを入れつつ、お茶を濁していても拉致があかないので、ズバッと単刀直入に切り込んでみることにした。
「お客様、今、ちゃんとお金はお持ちですか?」
すると彼は、泳ぐような目でボソボソとこう言った。
「あの……今、知り合いに頼んでて、これからPayPayで送られてくるので……」
「……分かりました。あと30分は待ちますけど、もしその時に支払いがない場合は、警察を呼びますからね」
私はそうキッパリと宣告し、フロントへと引き返した。
3. パチンカス藤田の見立てと、しー姉の祈り
ことの次第をパチンカス藤田に報告すると、ギャンブルの酸いも甘いも習慣的に噛み分けた彼は、フッと鼻で笑ってこう言ったのである。
「しー姉、それ『知り合いから送ってもらう』んじゃなくて、競艇の配当金ですよ」
「えっ、配当金?」
そもそもしー姉にとって「公営ギャンブル」といえば、漫画『銀の匙』を読んで大層感動した、あの北海道の重いソリを引く「ばんえい競馬」くらいのものであった。
砂埃を巻き上げ、馬たちの鼻息が白く荒れ狂う泥臭い世界こそがしー姉の知る勝負師たちの姿であり、今の世の中、水上のボートレースの配当金がスマートに電子マネーのPayPayで即座に手元に転がり込んでくるなどという、文明の利器をフル活用した便利なシステムになっているとは、夢にも思わなかったのである。
つまり、あの男は今、知り合いの親切を待っているのではなく、自分の財布の命運をかけたガチのレース結果を待っている状態なのだ。もし予想が外れれば、その瞬間に彼のネカフェ人生、および我が店の平和は一発アウトである。
状況を理解した瞬間、しー姉は生まれて初めて、見ず知らずのボートレーサーたちに向かって、心の底から「お願い!勝ってえぇぇ!」と熱い祈りを捧げた。他人のギャンブルの勝利をこれほど必死に願う日が来ようとは、人生分からないものである。
タイムリミットの5分前。
私は隣にいるパチンカス藤田に、静かにこう指示を出した。
「藤田、今すぐ靴に履き替えておいて」
万が一、レースに負けた男がフロント前を全速力で駆け抜けて逃走した場合に備え、ダッシュで追いかけられる準備をさせたのだ。
まさか駅ビルのネットカフェで、「パチンカス藤田 VS 競艇男」による世紀の「グランプリ(賞金王決定戦)」が開催されるかもしれないと思うと、しー姉の胃のあたりは緊張とワクワク(不謹慎)でキュッと縮み上がった。
4. 運命の決済音と、しー姉の願い
そして、運命の30分が経過した。
カタッとブースの扉が開き、男がゆっくりとフロントへやってくる。
その表情は、先ほどまでのカチコチに強張ったものとは違い、どこかやり切った男の哀愁を漂わせていた。
しー姉は平然を装いながら、伝票のバーコードを読み込む。
「お会計、3,840円になります」
男は、ゆっくりとスマホを差し出した。
「……PayPayでお願いします」
ピピッ。
レジから軽快な決済音が響き渡り、無事に精算が完了した。
(勝った……! この男、己の細すぎる運命の糸を手繰り寄せ、見事に勝利をもぎ取ったんだ……!)
フロントで、しー姉とパチンカス藤田は、まるで歴史的な和解でも遂げたかのように、無言で深く、深く、視線を交わし合った。
お互いの目には「勝ってよかった……」という安堵の涙すら浮かんでいたかもしれない。
おかげで警察沙汰も、駅ビル内の大追跡劇も回避されたのである。競艇の神様、この身勝手な男を救ってくれて本当にありがとう。
しかし、安堵したのも束の間。ここはお金(と己のプライド)を賭けて支払い能力を錬成するカジノではなく、健全なネットカフェである。
私は精算を終えた男に対し、次からはこんなハラハラするギャンブルをフロント裏で展開させないでほしいという願いを込めて、ピシッとこう釘を刺しておいた。
「お客様、次からはちゃんとお金を持ってから入店してくださいね」
そう告げると、男は小さくうなずき、そそくさと夜の街へ消えていった。
義務教育を終えたであろう大人の男に向かって、「お店に入るときはお金を持ってきなさい」という、幼稚園児でも知っているような常識中の常識をわざわざ真顔で指導せねばならないこの虚しさは、一体どう表現すればいいのだろう。
ネットカフェのフロントは、時として他人の全財産をかけた一世一代の大勝負を特等席で見届けさせられる、実に心臓に悪い人間交差点なのであった。
📚 しー姉のネカフェおすすめコミック
さて、今回の競艇男のように、自分の全財産どころか、なんなら「己の生存」すら賭けてギリギリの勝負に挑むヒリヒリしたお話が読みたくなってしまったそこのあなた。
ネカフェの棚から今すぐ引っ張り出してきて読んでほしい、究極の「勝負」と「生き様」を描いた傑作をご紹介しよう。
🎲 『賭博黙示録カイジ』
ギャンブル漫画の最高峰にして、人間のエゴと執念をこれでもかと煮詰めた怪作である。
自堕落な日々を送る青年・カイジが、多額の借金を背負わされたことをきっかけに、命をかけた狂気のギャンブルの世界へと足を踏み入れていく。
今回の競艇男は3,840円の支払いのためにスマホ画面をじっと見つめていたが、カイジたちの世界では、一歩間違えれば地下の強制労働施設に送られたり、高層ビルの間に渡された細い鉄骨を渡らされたりする。あの「ざわ…ざわ…」という独特の効果音とともに繰り広げられる命がけの心理戦は、読んでいるだけでこちらまでネカフェのクーラーが寒く感じられるほどの緊張感である。
「手元に3,840円しかないのにネカフェに入って競艇で勝ろうとする男」の、あの生きた心地のしないスリルを、ぜひ安全なソファの上から、ポテトチップスでも齧りながら追体験してみてはいかがだろうか。
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🐎 『銀の匙 Silver Spoon』
カイジのような脳汁ドバドバの頭脳戦とは180度違う、大自然の中で泥にまみれ、生き物の「命」と真っ正面から向き合う、最高に熱くて爽やかな青春コミックがこちらである。
都会の進学校での競争に敗れ、逃げるように北海道の農業高校へと入学した主人公・八軒(はちけん)くんが、仲間や動物たちとの関わりを通して成長していく姿を描いている。
作中に登場し、私が大層心を奪われたのが「ばんえい競馬」である。
一般的なスマートで優雅な競馬とは異なり、体重1トンを超える巨大なお馬さんが、重い鉄ソリを「エッチラオッチラ」と健気に引きずって進む姿がとにかく愛らしい。
心臓破りの坂(障害物)の手前でみんなで一斉に「ふぅ……」と立ち止まって休憩を挟んだり、さっきまでトップを走って勝っていたはずの子が、力尽きて途中でピタリと足を止めてしまったり。そんな力強さの中に見せる、なんとも言えない「ほのぼのとした人間臭さ」が、たまらなく愛おしくて胸がキュンとしてしまうのである。
スマホの画面をタップするだけで勝負が決まる現代のスマートなPayPay競艇とは対極にある、不器用で、一生懸命で、どこかお人好しな世界。
胃をキリキリさせるスリリングな勝負の後に、傷ついた心をじんわりと温め、命の尊さと「たまには立ち止まって休んでもいいんだよ」という優しさを思い出させてくれる、極上の名作である。
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