しー姉の働いているネカフェには、日々、実にバラエティ豊かな人類がやってくる。
なかでも、週に2、3回という高頻度でふらりと現れる30代前半の男性は、スタッフ間である親しみやすい(?)あだ名で呼ばれていた。
その名も、「ティガー」。
あの一世を風靡した黄色いクマのプーさんに登場する、あの飛び跳ねるトラである。
なぜ彼がティガーと呼ばれているのかといえば、理由はいたってシンプルで、歩き方がいつも「ぴょんぴょん」しているからであった。
ネカフェの全エリアが主戦場!四六時中スピークアップする男
それだけなら、ただの「フットワークの軽い陽気なお兄さん」で済む話なのだが、ティガーの本領はそこではなかった。
彼は、店内にいる間、常に独り言を言っているのである。
ブースに引きこもり、席にいる時はもちろんのこと、漫画を選びにぴょんぴょんと、本棚の間を彷徨っている時も、あるいはドリンクバーの前で「どれにしようかな」とジュースを注いでいる時も、彼の口元は休むことなく微かに、しかし確実に動き続けているのだ。もはや彼にとってネカフェの全エリアが主戦場であり、とにかくどこにいても独り言を言っているのである。
それも、ただのブツブツとした呟きではない。彼の脳内には、どうやら非常に個性の強い「イマジナリーフレンド(空想の友人)」が常駐しているらしく、その脳内の親友とのサシの会話がとにかく盛り上がっているようなのだ。
深夜に響くパッショントーク。店側が下した「苦渋の決断」
ある夜のこと、ティガーはいつものように部屋に入っていった。
しかし、夜中じゅう、彼のブースからは大音量の独り言が漏れ聞こえ、ついに隣のブースのお客様から「うるさくて眠れない!」と大量のクレームが入ってしまったのである。
一応、当店には完全個室の席もあるにはある。
だが、悲しいかな、ネカフェの個室というのは「完全防音」ではないのだ。ティガーのパッションに溢れた脳内トークは、薄い壁をいとも容易く突き抜けてしまうのである。
何度も続くクレーム。いくら注意しても止まらない、独り言。
他のお客様の安眠を守るため、店側としても苦渋の決断を迫られた。
結果、しー姉たちが導き出した答えは、
「店のいちばん奥の端っこにある、最もひとけの少ないリクライニングチェアの席」
を、彼の固定席にすることであった。
ここなら、彼の声も周囲に響きにくい。
(さあティガー、そこなら誰も邪魔はしない。心ゆくまで脳内の親友と語らうが良い……)
と、しー姉たちはそっと彼を奥地へと送り出したのである。
インターホンという名の、ただの飾り
さて、店のいちばん奥の端っこへと送り出されたティガーであったが、実はそのリクライニングのブース、位置的にはフロントの壁のちょうど真裏にあたる場所だったのである。
おかげで他のお客さんへの被害は完全に食い止められ、あれほど悩まされたクレームはピタリと無くなった。店にとっては大万歳である。
しかし、その代償を支払うことになったのは、フロントに立つ私たちスタッフであった。
壁一枚隔てただけの至近距離になったため、ティガーの熱い独り言は、フロントのバックヤードへ筒抜け状態でずっと響き渡り続けることになったのである。もはやちょっとしたBGM状態だ。
そんなある日のこと、フロントのインターホンが「ピロロロロ」と鳴った。お客さんからの食事の注文である。
「はい、こちらフロントです」
と、私が受話器を取ったその瞬間。
受話器の向こうから聞こえる声と同時に、すぐ後ろの壁の向こうからも、全く同じタイミングで、
『とんかつ定食!』
という生々しい大声がダイレクトに降ってきた。
サラウンドシステムもびっくりの、見事な二重奏(デュエット)である。
私は受話器を耳に当てたまま、ふと思った。
(……このインターホン、もしかして要らないんじゃないだろうか)
わざわざ機械を通さなくても、壁の向こうから直(じか)に注文は届いているのである。文明の利器というものの存在意義について、少し考えさせられた。
通路での急転直下。発覚した「脳内の親友」のまさかの正体
そんなある日、しー姉が店内の通路でティガーとすれ違った時のことである。
すれ違いざま、ティガーが虚空に向かって、
「……お前らさぁ!」
と、少し呆れたような、それでいて楽しそうな声をあげた。
その口調から察するに、彼の脳内にいるのは1人や2人ではない。そう、ここで初めて発覚したのだが、あろうことか数人の脳内の親友がひしめき合っているようなのだ。
24時間体制の意思決定システム。今夜の議題は一体……?
しー姉は、その様子を見ながら、大人気漫画『一日外出録ハンチョウ』のワンシーンを思い出していた。
あの作中で、主人公の大槻が、脳内の自分たちと「脳内会議」を開き、あーでもないこーでもないと議論を交わすエピソードがあるのだが、まさにあの高度な意思決定システムが、ティガーの頭の中でも24時間体制で行われているに違いない。
今日の議題は一体何だったのだろうか。ドリンクバーのメロンソーダにするか、リアルゴールドにするか、それとももっと深遠な宇宙の真理について、数人の脳内の親友たちが白熱した議論を交わしていたのだろうか。
「お前らさぁ!」と、脳内の親友たちの自由奔放さにやれやれと首を振るティガー。
その姿は、ネカフェの片隅で脳内組織を束ねる、若き敏腕議長のようでもあった。
今夜も店のいちばん奥の端っこから、微かに聞こえる議論の足音。
ティガーの脳内会議が円満に可決されることを、しー姉はカウンターの陰から、今日もそっと願うのである。
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