忍び寄る不穏な空気と、ピュアな若者
夕方、一人の三十代とおぼしき男性客がやってきた。
特に怪しい挙動をするわけでもなく、至って静かに、大人のマナーを守って部屋へと消えていった。ここまでは、どこにでもある平和なネットカフェの日常である。
その日、私と一緒にシフトに入っていたのは、大学二年生の男の子だった。
彼は根が大変よろしく、人当たりも良いのだが、世間の荒波というものをまだそれほど知らない、いわゆる「ピュアな若者」であった。この彼の「人の良さ」が、のちにバックヤードを大混乱に陥れる引き金になるとは、この時の私は知る由もなかったのである。
鉄の掟を破った、親切丁寧な呼び出し
男性客が入店して二、三時間が経過した頃、今度は三十代の女性が店に入ってきた。
フロントで対応したのは、例の大学生スタッフである。何やら二人はひそひそと話し込んでいたが、やがて女性はフロントを離れて少し離れた場所へ移動した。
なんだか妙な空気を感じた私は、お節介おばさんよろしく、大学生スタッフに「今、何かあったの?」と尋ねてみた。
すると彼は、小鳥のような無垢な瞳でこう言ったのである。
「あ、さっきの女性客が『〇〇さん(さっきの男性の名前)はいますか?』って聞くんで、僕『いますよ』って答えちゃいました。そしたら呼び出してほしいって言われたんで、今お呼びして、あそこで待ってもらってます!」
私は頭の中で、ガラガラと何かが崩れ落ちる音を聞いた。
おいおい、ちょっと待ってくれ。
我が店では「個人情報の遵守」が絶対の鉄の掟である。誰がどの部屋を利用しているかなどという情報は、たとえどんなに親しげな第三者であっても教えてはならない決まりなのだ。
例外が許されるのは警察からの公式な問い合わせくらいのもので、基本的には「お客様の利用状況についてはお答えできません」と突っぱねるのがマナーであり、マニュアルである。
それなのに、我が店の誇る「お人好しすぎる」大学生は、確認もせず「いますよ」と大盤振る舞いした挙句、親切丁寧に呼び出しまでしやがったのである。
フロント前にて、世紀の大決戦
やがて、ブースから問題の三十代男性が出てきた。
その顔は、まるでこれから処刑台にでも向かうかのようにカチカチに強張っている。
そしてフロント前で、世紀の大決戦がいきなり幕を開けた。
それは、絵に描いたようなドロドロの「夫婦喧嘩」であった。
「ごめん、本当にごめん……!」と、蚊の鳴くような声で平謝りする旦那(男性客)。
対する奥さん(女性客)の怒りは完全に沸点を超えており、「あんた、こんなところで何してんのよ!!」と、ネットカフェの静寂を切り裂く大声を張り上げ、ヒートアップしていく。
(……だから、教えちゃダメだって言ったのに!)
私は心の中で、映画『プラトーン』の有名なポーズばりに天を仰ぎながら、大学生スタッフをキッと睨みつけた。大学生はといえば、自分のしでかした事の重大さに気づき、完全に借りてきた猫のように縮こまっている。
地獄の業火に割って入るしー姉
しかし、フロント前はすでに阿鼻叫喚のカオス状態である。他のお客様の迷惑だし、何よりここで痴話喧嘩を繰り広げられては店の営業が成り立たない。
拉致があかないと判断した私は、意を決して、地獄の業火が盛大に燃え盛る夫婦喧嘩のど真ん中へと割って入ることにした。私だって本当は、他人の家庭の修羅場になんて一ミリも首を突っ込みたくはなかったのだが、背に腹は変えられない。
「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので、お話はどうかお外でお願いします!」
私がビシッと割って入ると、奥さんはハッと我に返ったように周囲の視線に目をやった。薄暗い通路の奥から、他のお客様の「なんだなんだ?」という冷ややかな視線が集まっている。さすがに公共の場だと自覚したのか、奥さんはほんの少しだけ肩の力を抜き、気まずそうに冷静さを取り戻した。
チャンスである。すかさず私がトレイを差し出し、冷静沈着な声で「それでは、お席のご精算をお願いいたします」と求めると、旦那のほうが「助かった…!」と言わんばかりの、すがるような目を私に向けてきた。その顔は完全に、砂漠で水を見つけた遭難者のそれであった。
しかし、現実はそう甘くはない。
差し出された伝票をチラリと覗き見ると、そこには基本料金だけでなく、ビールと唐揚げのお食事代がちゃっかり込みになっており、合計金額は二千円を悠々とオーバーしていた。
ただでさえ隠れてネカフェにいたことでブチ切れている奥さんである。この期に及んで、我が夫が冷房の効いた部屋でビールを煽り、唐揚げを頬張りながら優雅に寛いでいたという残酷な動かぬ証拠を突きつけられたのだ。
「あんた、こんなところでビールなんか飲んでんじゃないわよッ!!」
二千円オーバーという、あまりにも生産性のない無駄遣いの金額を目にした瞬間、せっかく冷静になりかけた奥さんの目は再び般若のごとく限界まで釣り上がり、怒りのメーターは完全に振り切れた。旦那のほうはといえば、もはや一言も弁明できず、ただただ小さく震えるばかりである。
私はそんな二人を半ば強制的に店から追い出し、ようやくバックヤードに静寂が戻ってきた。
ほろ苦き社会勉強の結末
生まれて初めて間近でリアルな夫婦の修羅場を目撃した大学生スタッフは、魂が抜けたような顔で「……本当にすみませんでした……」と、深く、深く反省していた。
どうやら彼にとって、今回の件は「世の中には、居場所を教えてはいけない人間関係が確かに存在する」という、大変ほろ苦い社会勉強になったようである。
親切が裏目に出ることもある。
ネットカフェのフロントは、時として人生の裏表を垣間見る、ちょっとした人間交差点なのであった。
📚 しー姉のネカフェおすすめコミック
さて、我がネカフェのピュアな大学生が引き起こしてしまった今回の夫婦大決戦は、ビールと唐揚げというあまりにもマヌケな証拠によって旦那側が完全敗北するという、世にもトホホな結末を迎えたわけであるが、世の中にはこれに負けず劣らず、一筋縄ではいかない「夫婦のカタチ」を描いた漫画がたくさん存在する。
今回は、そんな様々な夫婦の人間模様を覗き見できる、ネカフェでも大人気のコミックをいくつかご紹介しよう。
🍳 『極主夫道』
まずは、見た目は完全に極道(ヤクザ)なのに、中身はプロ級の主夫という、凄まじいギャップを持つ男の物語である。
元・最凶のヤクザである龍(たつ)が、愛する妻のためにキャラ弁を作り、スーパーの特売に命をかける姿は、今回の「ビールと唐揚げで怒られた旦那」に見せて爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいほどの献身ぶりである。奥さんとの掛け合いも最高にシュールで、読めば夫婦喧嘩のイライラなど一瞬で吹き飛ぶこと間違いなしだ。
🏰 『オークの樹の下』
お次は、ちょっぴりファンタジーな世界へトリップしてみよう。
吃音(きつおん)があり、実父から虐待されて育った不遇な公爵令嬢マキシと、下層階級出身ながら英雄となった騎士リフタンの、政略結婚から始まる不器用極まりないラブストーリーである。
心を閉ざした妻と、不器用ながらに全力で愛を注ぐ夫。我が店の大学生スタッフのような「ピュアな心」を取り戻したいときには、この二人のじれったくも愛おしい距離感を見守るのが、一番の心の洗濯になるかもしれない。
👰 『ハレ婚。』
「一人の夫に、複数の妻」という、日本の法律をガン無視した特殊特区で繰り広げられる、一夫多妻制のドタバタ新婚生活を描いたのがこちらである。
今回ネカフェに乗り込んできた奥さんなら、夫が「複数の妻を持つ」などと言い出した瞬間に間違いなく相手を消し炭にしているところだが、この漫画の妻たちは、嫉妬や葛藤にまみれながらも、不思議な絆で一つ屋根の下で暮らしていく。修羅場と愛が表裏一体となったスリリングな夫婦生活を、安全な温室(ネカフェ)から覗き見するにはもってこいの作品である。
🌾 『軍人婿さんと大根嫁さん』
最後は、大正時代を舞台にした、なんともお腹の空く美味しい夫婦の物語である。
コワモテで無口な二十八歳の軍人・織之助のもとへ、十四歳という若さで嫁いできた大根農家の娘・千代ちゃん。
歳の差なんてなんのその、お互いを思いやりながら、毎日の美味しい「ごはん」を通じて絆を深めていく二人の姿は、あまりにも尊くて胸が苦しくなる。ビールと唐揚げの悲劇で殺伐とした私の心を、この温かいお味噌汁のような優しさが、じわじわと包み込んで救ってくれるのであった。
人それぞれに、いろんな夫婦のドラマがある。
我が駅ビルの下りのエレベーターに押し込まれ、その狭い密室の中で今頃まだ奥さんに絞られているかもしれないあの旦那も、いつかこれらの漫画を読んで、正しい「夫婦の作法」というものを一から学び直してほしいと、私は夜風に吹かれながら切に願うのである。



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