しー姉の働いているネカフェには、時々、世にも不思議なお客さんが現れる。
その中でも、半年に一度くらいの割合でフラリとやってくる、強烈なレアキャラがいる。
◆ヤツがやって来た。
その人の名は、茂雄。会員登録の際の名前はれっきとした男性である。
その日も、自動ドアが開いた。お客様だ。
「いらっしゃいマセ…」
しー姉は、最後まで言う前に声が詰まってしまった。
そこに立っていたのは、ずんぐりとした肉体にピタピタのミニワンピースを着て、頭にはボサボサと絡まり何故か位置がズレているロングのウィッグを被った、まるで六角精児さんが女装したかのような彼だったのである。
その茂雄が、受付で、裏返ったような高い声を出す。
「ねぇ、今、どのタイプの部屋が空いてるかしらァ……?」
どうやら今日の茂雄は、すこぶるご機嫌な様子であった。
無事に受付を済ませて伝票を手にした茂雄は、部屋に入る前にフリードリンクコーナーへと向かった。
(どれを飲もうかしらァ…)
と言わんばかりに、マシンの前で体をクネクネとさせているのである。
その時、隣でコーヒーを注いでいた一般のお客様が、茂雄のただならぬ気配を察知し、何ひとつ言葉を発することなく、そっと、音もなく後ろへ下がっていった。その引き際の見事さは、まるで忍者のようであった。
そんな周囲の動揺など露知らず、茂雄はピタピタのミニワンピースを揺らしながら、しばらくジュースを片手に店内をウロウロしていたが、何を思い立ったのか、またクネクネとフロントに戻ってきた。
そして、しー姉に向かってこう言ったのである。
「ねぇ…私、おトイレはどっちを使ったら良いのかしらァ?」
隣にいたパチンコ大好きスタッフ、パチンカス藤田は、しー姉が何と答えるかをニヤニヤしながら高みの見物を決め込んでいる。
しー姉は、接客用のプロの笑顔を貼り付けたまま、真顔で、
「戸籍の性別の方でお願いします(ニッコリ)」
と、一刀両断に捌くのである。
茂雄は、しー姉の言葉に少し不満げな顔をしながらも、男子トイレへと消えていく。
しー姉は、そのはち切れそうなワンピースの後ろ姿を見送りながら、人間というのは、本当にいろいろな生き方があるものだなぁ、とつくづく思うのである。
それから1時間ほど経った頃、ブースに入っていた茂雄が、再びフロントに現れた。
今度はフロント業務をしていたパチンカス藤田をターゲットに定めたようで、満面の笑顔でこう話しかけたのである。
「シャワールームは使えるかしらァ?」
先ほど高みの見物をしてニヤニヤしていた藤田の顔から、一瞬で余裕が消え去った。
藤田は、目の前で微笑む六角精児(女装仕様)のド迫力に完全に気圧され、声を震わせながら、
「こ、…こちらをどうぞ」
と、命の次に大切なものを取り扱うかのような手つきで、シャワー室の鍵を渡した。しー姉は、その哀れなパチンカスの様子を、カウンターの陰から非常に味わい深い気持ちで眺めていたのである。
それからしばらくして、すっかりさっぱりとした茂雄がフロントに鍵を返しにきた。その時の茂雄の表情は、まるでひと仕事を終えた職人のように晴れやかであった。
◆まさかの忘れ物
そして茂雄が満足そうに帰られたあと、しー姉はいそいそと、シャワー室の清掃に向かった。
「よし、ササッと綺麗にするかー」とドアを開けると、洗面台に何かがポツンと落ちていた。

見慣れないぷるんとした薄ピンクの塊に、しー姉は、目を凝してゆっくりと顔を近づけてみた。
それが何であるかが分かった瞬間、しー姉の口からは「ひぅっ……」と、変なしゃっくりみたいな声が漏れ出た。
それは、まだほんのりと体温の残る、茂雄のヌーブラ(何故か片方)であった。
「え、置いてっちゃったの?ていうか片方だけ?」と心の中で激しくツッコミを入れつつ、仕事なので、忘れ物として処理すべく、拾い上げた。
正式には、拾い上げて、何気なくそれをクルッとひっくり返したのである。
それが、全ての悲劇の始まりであった。
ヌーブラの吸着面(裏側)を見た瞬間、しー姉は、思わず、
「ンヒィィィィィィィィィーーーッッッ!!!」
と、声にならない悲鳴をあげた。
そこにあったのは、粘着剤にびっしりと絡みついた、大量の「乳毛」!!!!

あの六角精児風ボディの現実が、そこにすべて凝縮されていた。
しー姉は、茂雄のミニワンピースの下に隠された、もう一つの剥き出しの真実を知ってしまったのである。
普通なら、速攻でゴミ箱に投げ捨てて、記憶から消し去るところだ。
だが、バックヤードの主であるしー姉は、持ち前の優れた危機管理能力によってすぐさま冷静さを取り戻し、それと同時に、ふつふつと良からぬ悪戯心が湧き上がってくるのを止められなかった。
「仕事なので、スタッフ間の『情報共有』は大事よね」。
ほら、結婚式でも「病める時も, すこやかな時も」って言うじゃない。
ネカフェの仲間なら、こういう強烈な苦しみ(気持ち悪さ)だって分かち合うべきだ。
しー姉はそっとヌーブラを元の位置に戻し、何食わぬ顔でフロントへ戻った。
フロントには、先ほど茂雄の迫力に震え、今はすっかり安心しきっている藤田がいた。
しー姉は、天使のような笑顔で彼に言った。
「ごめん藤田、シャワー室に忘れ物があるから、ちょっと確認してきてくれる?」
「あ、うっす、行ってきまーす」と軽い足取りで向かう藤田。
数分後。
顔を真っ青にして、魂が抜けたような表情で戻ってきた彼が、しー姉に放った一言がこちら。
「ちょっとしー姉さん!!!わざとでしょ!!!(怒)」
バレた(笑)。
そこからは、藤田にめちゃくちゃ文句を言われながら、二人で「うわぁ……」「まじできついっすわ……」と、揃ってどんよりブルーな気分に浸った。
茂雄よ、次に来るときは、ぜひ両胸の忘れ物に気をつけてくれ。
経済的な事情は知らないが、片方だけ置いていかれても、こちらとしては処分に困るのである。
(※なお、このヌーブラは数日間大切に保管いたしましたが、持ち主が現れなかったため、現在は店舗の規定通りに責任を持って処分させていただいております。)
それにしても、女装というのは実にも奥が深い世界のようである。
世の中には茂雄のように「ワンピースをパツパツに着てウィッグを乗せるだけ」という、力技一本で己のパッションを表現するストロングスタイルの者もいれば、一方で、ミリ単位のこだわりで完璧な美少女へと変身を遂げる者たちもいるのだ。
そんな「本物のコスプレ・女装の世界」の凄まじさを、しー姉にまざまざと見せつけてくれたのが、『その着せ替え人形(ビスク・ドール)は恋をする』というコミックである。
雛人形の顔を作る「頭師(かしらし)」を目指す純朴な男子高校生・新菜(わかな)が、ギャルでオタクな美少女・海夢(まりん)のコスプレ衣装を作ることになる……という物語なのだが、これがただの胸キュン漫画だと思って読むと、頭をガツンと殴られる。
とにかく、コスプレに対する技術的なアプローチがガチすぎるのだ。
作中には、なんと「男子が美少女キャラのコスプレをするための女装テクニック」まで事細かに描かれている。
茂雄が苦労していたであろう(というか大失敗していた)「胸のボリュームの出し方」はもちろんのこと、ウエストを不自然なまでに細く見せる補正方法、果ては男特有の骨格や、ゴツい肩幅をいかにして「女の子の華奢なライン」に偽装するかという、執念すら感じるプロの技がこれでもかと紹介されているのである。
これを見ていると、しー姉はつくづく思ってしまうのだ。
もし、我が店の茂雄がこの漫画を読み、テーピング技術や正しいヌーブラの扱い方、誠に勝手ながら「粘着面に毛を絡ませないための事元の除毛」という基本概念を学んでくれていたら、あの日のしー姉とパチンカス藤田の精神は、健やかに保たれていたのではないか、と。
茂雄のパッションに、あの緻密なコスプレ技術がほんの1ミリでも加わっていれば、彼はネカフェの怪異ではなく、ただの「ちょっとガタイのいい麗しきお姉様」としてコーヒーをクネクネと注いでいたかもしれないのである。
コスプレにすべてを懸ける若者たちの熱量に感動しつつ、なぜか頭の片隅で茂雄の乳毛がチラついて切なくなる、しー姉一押しの名作。
美しい二次元の女装技術で、ぜひ皆様もあの薄ピンクのトラウマを浄化していただきたい。
(女装の「正しい真実」がすべて詰まった、ガチすぎる名作コミックはこちら👇)
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