しー姉の働いているネカフェには、ドリンクバーがある。
ジュースやコーヒーが飲み放題なのはどこのネカフェでも一緒だが、我が店の自慢はなんと言っても「ソフトクリーム食べ放題」である。
この、冷たくて甘い「白い神」のような存在は、老若男女問わず多くのお客様の心を鷲掴みにしている。だが、お客様たちがご機嫌でレバーを引いてソフトクリームを巻き上げている裏で、スタッフがどれほどの時間と労力をすり減らしているか、知る由もないのである。
誰も知らない「白い神」の裏側と、地獄のミッション
その最たるものが、定期的にやってくる「分解清掃」という地獄のミッションだ。
この作業が、本当に気が遠くなるほど面倒くさい。
まず、マシンの中に残っている原料をすべて吐き出させ、そこからが本番である。細々としたネジやパッキン、金属のパーツをそれこそ「1つずつ」慎重に外していく。そのパーツの多さは、ちょっとしたプラモデルのようであり、一つでも無くしたり順番を間違えたりすれば、マシンは二度と冷たい奇跡を紡ぎ出してはくれない。
手荒れと戦いながらそれらのパーツをきれいに洗い、さらに機械の内部も徹底的に洗浄する。その後、再びパズルのようにパーツを組み上げたら、今度は新しい原料を入れて「殺菌」の工程に入るのだ。
時間にして、およそ2、3時間。
しかも、ドリンクバーの前に「ただいま清掃中」の看板を立てている間にも、ソフトクリームを心待ちにしているお客様が、遠巻きに「まだかなぁ」という無言のプレッシャーをかけてくる。バックヤードの主であるしー姉としても、一刻も早く仕上げねばと、息をもつかせぬスピードで作業を進めるのである。
よし、殺菌も終わり、運転開始だ。
マシンはピカピカ、内部の衛生状態も完璧。しー姉は「さあ、心ゆくまで白い神を堪能するがよい」と満足げなドヤ顔で、次のオペレーション(業務)へと移った。
鳴り響くSOS。目の前に広がっていた「白い大洪水」
悲劇が起きたのは、その直後であった。
ドリンクバーの方から、
「……すみませーん、すみませーん…」
という、蚊の鳴くような、しかし妙に切羽詰まった声が聞こえてきのである。
しー姉が「おや?」と思って見に行くと、そこには驚天動地の光景が広がっていた。
さっき、しー姉が魂を込めて磨き上げ、2〜3時間かけてようやく稼働させたばかりのピカピカのソフトクリームマシンから、床に向かってムニョムニョと白い濁流が溢れ出ているではないか。
まさに、白いマグマの大洪水。
空間を埋め尽くす圧倒的な白を前に、40代半ばほどの小柄な男性客が、完全にフリーズした状態で立ち尽くしていた。
男は、なぜか「レバーを上に押し戻せばソフトクリームは止まる」という、この宇宙の単純明快な法則に気づくことができなかったらしい。
男は、溢れ出る白い悪魔を前に完全に思考停止し、カップを握りしめたまま、自分の両手をベタベタに汚し、ただただ濁流が増殖していく様子を凝視しながら「すみませーん……」と呟いていたのである。
(止めろよ!!!!!!)
としー姉の心の中のヤンキーが激しくツッコミを入れたが、そこは接客のプロである。しー姉は平熱の笑顔を貼り付けたままスッと近づき、下がったままのレバーをグイッと上に押し上げた。
一瞬にして静まり返るドリンクバー。
レバーを戻す。ただそれだけの動作で、この世の終わりのような大洪水は、あっけなく幕を閉じたのである。
あとに残されたのは、ベタベタの床と、さっき清掃を終えたばかりなのに見る影もなく汚されたマシン、それから手を白く染めた小柄な男である。
しー姉が静かに「どうぞ」とタオルを差し出すと、男は「……すんません……」とボソボソと消え入るような声で謝りながら、まるで横歩きするカニのような気まずい足取りで、そそくさと自分のブースへと逃げ帰っていった。
「……また、掃除か」
しー姉は、再びバケツと雑巾を手に、床にへばりついたソフトクリームを拭き取りながら、深く、深い宇宙のようなため息をついた。
するとそこへ、ドリンクバーの異変を察知したのか、バックヤードから一人の男がフラリと現れた。
都市伝説を持つ男。我が店の「デジタル守護神」が降臨
同じシフトに入っていたスタッフの後藤さんである。
後藤さんは40代後半の細身で背が高い男性で、いつもご機嫌に鼻歌をハミングしながら仕事をしている。ただ、作業に没頭すると「ラララーァ♪」と妙に声が大きくなってしまう、ちょっとチャーミングな癖の持ち主だ。
この後藤さん、実はパソコンに関して並外れた頭脳を持っており、かつてフリーズして画面が真っ黒(ブラックアウト)になったパソコンの前にスッと「座っただけ」でなぜか起動させてしまったという、もはや都市伝説レベルの逸話を持つ男なので原のである。
まさに我が店のデジタル守護神。だが、神というのは得てしてバランスが極端なもので、後藤さんはパソコン以外の業務に関しては、ちょっとびっくりするほどポンコツな天然さんという一面も併せ持っていた。
そのデジタル守護神が、床一面に広がる白いマグマを見つめ、いつものハミングをピタッと止めて言った。
「んぅン〜、やられましたねぇ」
まるで、他人事のように実にあっさりと、そして深みのある声でそれだけ言うと、後藤さんは何をするでもなく、再びパソコンのメンテナンス業務へとスライドするように戻っていったのである。
(えぇ……ちょっと拭くのを手伝ってくれてもよくね……?)
としー姉の心の中のヤンキーが本日二度目のツッコミを入れたが、彼の中のデジタル脳には「ソフトクリームの拭き取り」というコマンドは実装されていないのだから仕方がない。
現代の密林・ネカフェ。あなたもこの扉を叩いてみないか?
しー姉は、遠くから再び聞こえてきた「ラララーァ♪」という後藤さんのハミングをBGMにしながら、黙々と雑巾を動かした。
あの小柄な男は今頃、ブースの中でベタベタになった手を気にしながら、何食わぬ顔で漫画を読んでいるのだろうか。
人間というのは、想定外のパニックに陥ると、目の前にある「レバー」の存在すら脳内から消去されてしまうものなのだなぁ、としみじみ思うバックヤードの主であった。
白いマグマに溺れるお客様がいれば、座るだけでパソコンを直すハミングおじさんもいる。
ネットカフェという場所は、普通に生きていたら絶対に出会わないような「人間のディープな面白さ」が凝縮された、まるで現代の密林のようである。
毎日同じことの繰り返しで退屈しているそ公のアナタ。
もし、スリリングで、ちょっとマヌケで、ブログのネタには事欠かないエキサイティングな日々を送りたいのなら、ネカフェの扉を叩いてみるのも悪くないかもしれない。
もちろん、2〜3時間かけた分解清掃を一瞬で無に帰される覚悟と、謎のハミングを優しく聞き流せる強靭なメンタルは必須であるが。
「ちょっとネカフェバイト、覗いてみようかな」と思ったチャレンジャーな方は、ぜひこちらから自分にぴったりの職場を探してみてほしい。
次は一体どんな怪異……もとい、素敵なお客様が自動ドアをくぐってやってくるのか。
バックヤードの主の人間観察は、まだまだ終わりそうにない。



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