しー姉の働いているネカフェには、毎日、昼過ぎになると決まって現れる高齢のお客様たちがいる。スタッフ間では、敬意を込めて「年金ルーティン組」などと呼んでいるのだが、その中の一人に、実に物静かな70代の白髪のおじいちゃんがいた。
彼はいつも、壁のないオープンタイプの席にちょこんと腰掛ける。
そして、ゆっくりと時間をかけながらコーヒーをすするのだ。その姿は、およそネカフェという世俗的な空間には似つかわしくないほど静謐で、どこか浮世離れした雰囲気を纏っていた。
220巻を超える巨塔に挑む、静かなる日課
だが、そんなおじいちゃんには、絶対に譲れない鋼のルーティンがあった。
彼は席に着くと、必ず漫画棚から名作『ゴルゴ13』を「2冊」だけ持ってきて、それをじっくりと読むのである。
言わずと知れた『ゴルゴ13』は、220巻を超える歴史を持つ超長寿コミックだ。おじいちゃんは毎日コツコツと、その巨塔を2冊ずつ登っているのである。
そして2冊を読み終え、コーヒーを飲み干すと、およそ2時間ほどで満足したように静かに帰っていく。彼が返却用のワゴンにそっと置いていった2冊のゴルゴを、しー姉が毎日せっせと元の本棚へと戻すのが、我が店の日常の一コマであった。
しかし、「毎日2冊」を繰り返しているうちに、しー姉はある重大な事実に気がついてしまった。
どんなに高い山であっても、毎日登っていればいつかは頂上に着く。あの膨大な巻数を誇るゴルゴ13の最新刊の背表紙が、確実に、そして一歩一歩、おじいちゃんの細い指先に近づいてきているのだ。
迫り来る最新刊。しー姉の脳内を襲う「昇天」の危機
(おいおい、ちょっと待ってくれよ……)
しー姉は、棚にゴルゴを戻しながら、勝手にひとりでヒヤヒヤし始めた。
毎日2冊ずつ、命を削るようにして最新刊へと近づいていくその刹那的な後ろ姿は、まるで名作小説の『最後の一葉』のようではないか。あの最後のページ(一葉)がめくられ、すべての物語を読み終えて人生の大きな目的を達成してしまったその瞬間、おじいちゃんは満足感のあまり、文字通り天へと「昇天」してしまうのではないか。
あるいは、すべてを読み終えた翌日から、パタリと店に来なくなってしまうのではないか。
そんなしー姉の勝手な心配をよそに、おじいちゃんのカウントダウンは進む。
そしてついに、その日がやってきた。
おじいちゃんの手元には、ついにゴルゴ13の最新刊が握られている。彼はいつも通り、ゆっくりとコーヒーを口に含みながら、最後のページをめくっていた。バックヤードのしー姉は、生唾を飲み込みながら、遠くからその様子を凝視する。
(頼むから昇天しないでくれよ、おじいちゃん……!)
やがて本が静かに閉じられ、おじいちゃんはそれを返却ワゴンに置くと、いつも通り静かに店を後にした。その背中を見送りながら、しー姉は「明日、もしも来なかったらどうしよう」と、勝手にドキドキと思いを巡らせていたのである。
驚愕の翌日。当たり前の日常にツッコミが止まらない
そして、運命の翌日。昼過ぎ。
自動ドアが開き、店内に一歩足を踏み入れてきたのは、昨日ゴルゴを完全攻略したはずの、あのおじいちゃんであった。
店に来た。(当たり前である)
生きてた。(これも至極当たり前である)
勝手に深刻な文学ドラマに仕立て上げてハラハラしていたしー姉の心配を置き去りにして、おじいちゃんはいつも通りのスローモーションな足取りで、迷いなく漫画棚の前へと進んだ。
そして、彼が嬉しそうに抱えて持ってきた「新たな相棒」を見て、しー姉はひっくり返りそうになった。
おじいちゃんが手に取ったのは、なんと『釣りバカ日誌』であった。
(そっちに行くのかよ!!!!!!)
としー姉の心の中のヤンキーが猛烈にツッコミを入れたが、同時に、これ以上ない安心感が込み上げてきた。
『釣りバカ日誌』といえば、これまた100巻を超える超長寿コミックである。超ハードボイルドなスナイパーの世界を生き抜いたおじいちゃんは、今日から一転、浜ちゃんとスーさんのゆるい釣りライフへと舵を切ったのだ。
あの巻数をまた1から毎日2冊ずつ読むとなれば、一体どれだけの年月がかかることか。どうやらおじいちゃんの「最後の一葉」がすべて落ちる心配は当分の間なさそうであり、なんならめちゃくちゃ長生きしそうである。
今日も平和な店内で、ドリンクバーの補充に向かうしー姉。
ネカフェの片隅で始まったおじいちゃんの新たな大長編セカンドライフを、明日もそっと見守るバックヤードの主であった。



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