はじめまして。あるいは、ごきげんよう。
漫画と酒に溺れるバックヤードの主、しー姉である。
ネカフェ(インターネットカフェ)の店員を始めて10年。
この「人間の欲望と混沌が渦巻く密室」のバックヤードに生息し続け、私が目撃しなかった修羅場など、もはや存在しないのではないかとすら思う今日この頃である。
お昼の少人数シフト、突発的な大トラブル、怪しい常連客……。
今回は、そんな私の10年間のキャリアの中でも、特に私の「耳とプロとしての尊厳」が試された、ある平日の昼下がりの大事件についてお話ししよう。
◆ 静寂を切り裂く、年金ルーティン
その日、私と一緒にシフトに入っていたのは、まだ若い既婚者のパートさん(以下、奥さん)であった。
平日の昼下がりのネカフェというのは、実に牧歌的で、なだらかな時間が流れている。なぜなら、その時間帯の主役は、年金をもらった足で毎月お決まりのルーティンとしてやってくる、のんびりしたおじいちゃん常連客たちだからだ。
私は受付のカウンターの陰で、「今日の夜ご飯は、旦那君の好きなオムライスにしますぅ」と、笑顔で話す奥さんの話に(しー姉にも、そんな時代あったよ)と懐かしくなりながら耳を傾けたり、家に帰ったら愛猫のひまわりとはなちゃんをどちらから吸おうかなどと、実に平和な妄想に耽っていた。
しかし、その静寂は突如として破られた。
「アッーーー!ンッ……ハァッ……!!」
個室エリアのどこかから突如として響き渡る、明らかに「大人の大冒険」の最中と思われるあえぎ声。それも、スピーカーの限界に挑むかのような、かなりの大音量である。
受付にいた私だけでなく、ブースで静かに過ごしていた他のお客様たちの気配が、一瞬で「静かに凍りついた」のが空気で伝わってきた。
「し、しー姉さん……あの、ちょっと……!!」
隣を見ると、さっきまでオムライスの話をしていた若い奥さんパートが顔を真っ赤にし、完全にパニックになりながら私の服の袖をグイグイと引っ張っている。
そりゃあそうである。まだ若い奥さんにとって、平日の昼間から店内に鳴り響くピンク色の爆音は、刺激が強すぎるというか、どう対処していいか分からない未知の災害のようなものだ。
彼女の潤んだ目が、私にこう訴えていた。
『私には無理です。しー姉さん、行ってください……!』
本当を言えば、私だって絶対に行きたくはなかった。これがもし、今日のシフトに入っているのが男のスタッフであったなら、私は迷わず「ちょっと、男の意地を見せてきなさい」と、背中を強く蹴り飛ばして戦場へ送り出していただいたところである。
しかし、天は私に味方しなかった。今日の受付にいるのは、今夜のオムライスに胸を躍らせているピュアな新婚の奥さんと、私(漫画と酒に溺れるバックヤードの主)の二人きりなのだ。
この二択において、どちらがピンク色の爆音テロの処理にふさわしいかなど、考えるまでもない。消去法で、しー姉決定である。世の中には、どうにも抗えない非情な現実というものが存在するのだ。
私は深いため息をひとつ吐き、まるでこれから処刑台に向かう罪人のような重い足取りで、インカムを握りしめて戦場へと歩き出した。私が行くしかないのである。
◆ 鳴り響く爆音と、開かずの扉
声の発生源は、やはり奥のブースにこもっている、例の年金ルーティンのおじいちゃん常連であった。
さて、ここからが「ネカフェ店員」という職業の、最も胃が痛くなる暗黒地帯(ダークサイド)である。
普通のカラオケや居酒屋なら「失礼しまーす!」とドアをガラリと開ければ済む話だが、ネカフェはそうはいかない。お客様が個室で「何をしているか分からない」以上、店員側から勝手にドアを開けることは絶対にタブーなのだ。もし万が一、おじいちゃんが「極限のプライベートタイム」の真っ最中だった場合、こちらからドアを開けようものなら、一発で大クレームへと発展する。
つまり、「ドアは、何が何でもお客様自身のルールで、内側から開けてもらわねばならない」のである。
私はドアの前に立ち、意を決してノックをした。
(コンコン、コンコン)
「……。」
反応はない。当然である。おじいちゃんは今、大音量の爆音(※ただし半分しか耳に届いていない)の中に身を置き、なおかつ画面の美女に魂を奪われているのだ。普通のノックなど、彼の耳には「蚊の羽音」ほどにも響かない。
(コォン!コォン!コォン!!)
少し強めに叩いてみる。しかし、防音の壁の向こうからは、相変わらず「アッーーー!」というおじいちゃんのパラダイスの歓喜の声が響いてくるだけである。完全なる無視。いや、悪気のない黙殺である。
店内に鳴り響き続けるピンク色の爆音。
カウンターの向こうで震えているであろう、オムライス作りの若い奥さん。
他のお客様の冷ややかな視線(を感じる気がする)。
絶対に自分からは開けてはならない、開かずの扉。
私はブースの前で、まるで時限爆弾を前にした特殊部隊のような冷や汗を流していた。このままでは店内の治安が崩壊する。おじいちゃんの社会的尊厳も、時間の問題で消滅する。
「……やるしかない。」
私は最後の手段に出た。
おじいちゃんの五感のうち、死んでいる「聴覚」は諦め、生きているはずの「視覚」、あるいは「野生の勘」に賭けることにしたのだ。
ドアの隙間から、ブースの床に向けて、私の影を激しくチラつかせてみる。さらに、ノックの振動がダイレクトにデスクに伝わるよう、ドアのフレームの硬い部分を、一定の規則正しいリズムで小刻みに小突き続けた。
「怪しい影」と「謎の微振動」。
これだけ揃えば、いかにパラダイスに没入しているおじいちゃんと言えど、本能が「おや?」と察知するはずである。
祈るような気持ちで影を揺らし続けること数十秒。
ついに、ガチャリ、と鍵が開く音がした。
スライドドアがゆっくりと開き、中から「ん?なんだい?」という、実にすっとんきょうな顔をしたおじいちゃんが現れたのである。
◆ ヘッドホン半挿しの罠
驚くべきことに、彼の耳にはしっかりとヘッドホンが装着されていた。
そうなのだ。おじいちゃんは、決して悪気があってテロを起こしたわけではない。
「ヘッドホンのプラグが、半分しか刺さっていなかった」のである。
おじいちゃんの耳には、おそらく微かに音が届いているのだろう。しかし、その何十倍もの爆音が、プラグの隙間から漏れ出し、店内に大解禁されていることに本人は1ミリも気づいていない。
さあ、ここからがプロの腕の見せ所である。
おじいちゃんのすっとんきょうな顔を前に、私は極めて冷静に、かつスマートに微笑んだ。
「お客様、少し機器の調子を見させていただきますね〜」
そう言いながら息を殺し、忍者のようにブースへ手を入れた。狙うはパソコンの裏側、あの運命のプラグ。
(カチッ……)
指先に伝わる、確かな手応え。
次の瞬間、店内に鳴り響いていた爆音はピタッと消え失せ、ネカフェには再び、元の美しい静寂が戻ってきたのである。おじいちゃんのパラダイスは、誰の尊厳も傷つけることなく、無さに彼のヘッドホンの中へと格納された。
「はい、これで大丈夫です!ごゆっくりどうぞ〜」
何事もなかったかのようにドアを閉め、私はバックヤードへ戻るなりドッと冷や汗を流したものであった。
◆ お耳直しに、この上ない「無垢」をどうぞ
いくら仕事とはいえ、平日の真っ昼間から静寂のネカフェにあえぎ声を浴び続けたのだ。私の耳と心は、すっかり「大人のディープな世界」に汚染され、カサカサに乾ききっていた。これでは仕事終わりのビールすら、美味しく飲めそうにない。
そんな時、休憩室のパイプ椅子に腰掛け、死んだ魚のような目で私がいつも手に取るコミックがある。
それが、『よつばと!』である。
ご存知の方も多いと思うが、これは「よつば」というちょっと変わった5歳の女の子の、何気ない日常を描いた漫画だ。セミを捕まえたり、隣の家のお姉ちゃんに突撃したり、ただそれだけの話である。
しかし、これがいいのだ。
さっきまで「大人の大冒険」の爆音と戦っていた私の心に、よつばの放つ「圧倒的な無垢」が、まるで乾いた砂に染み込む水のようにじわじわと広がっていく。
「ああ、世界にはこんなに綺麗で、優しくて、平和な時間が流れているのだなぁ」
と、私は涙ぐみそうになりながらページをめくった。これぞ究極のデトックス(心の洗濯)である。おじいちゃんの爆音で汚れた私の耳は、よつばの「とーちゃん!」という元気な声によって、見事に清められたのであった。
もしあなたも、日々の生活や理不尽な人間関係で心がカサカサになった時は、ぜひこの漫画を開いてみてほしい。バックヤードの主が10年のキャリアを賭けて保証するが、一瞬で心が5歳児の夏休みにタイムスリップできる名作である。
(ちなみに、ネカフェのパソコンで動画を見る時は、ヘッドホンのプラグがちゃんと奥まで刺さっているか、親の仇を見つけるレベルで確認することを強くおすすめする。万が一プラグが甘かった場合、あなたの趣味嗜好が店内に大解禁され、バックヤードから私のような形相の店員が忍び寄る羽目になるからだ。
もっとも、あなたの中に響くよつばの「とーちゃん!」という純粋な声なら、万が一音漏れしても周囲に微笑ましい空気が流れるだけなので、その点は安心なのだが。)
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